2020年09月09日

Open Arms 翼をひろげて


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YS-11

昭和57年(1982)に、初めての飛行機体験、YS-11に乗って上京したわけですが、だんだん小さくなっていく故郷を見下ろしながら涙が流れたものでした。

ウォークマン(もどき)で、JourneyのOpen Armsを聴いていましたが、エンジン音がうるさかったことを覚えています。

いろいろと悲しい別離の中にも、新しい土地での生活に少しの希望がありましたが、中野の日当たりの悪いアパートに到着した途端に木端微塵に吹き飛んだ18の春でした。


Open Arms / Journey
【JASRACからの警告により動画は削除しました。】
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2020年08月04日

Time goes by


先日、小樽在住のかたからお知らせをいただき、下記の写真を添付していただきました。

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ずいぶん古くなったダンボール箱に私の実家である原時計店の荷札が貼られたままでした。
昭和期に製造された天体望遠鏡を譲り受けられたとのことでしたが、わざわざお調べいただき御一報をいただきました。
あらためて御礼いたします、ありがとうございました。


住所が訓子府町駅前通りとなっていますが、今でも訓子府町 原時計店で荷物が届きます。

当時の正確な住所は、訓子府町仲町でしたが、いつからか番地も割り振りされていました。


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平成11年までの訓子府駅


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プラットホーム側から見た訓子府駅

写真は、mamochan @mamocha13478942 様のツイッターから拝借いたしました。


私は、昭和57年3月に、この訓子府を離れ女満別空港からYS11型機で上京しました。

ずいぶん時間が過ぎました。

【JASRACからの警告により動画は削除しました。】
posted by yasuhiro hara at 00:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 生い立ち

2014年02月14日

今日も東京は雪

先週の8日土曜日に続いて今日も雪になっています。

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前回と同じようですが、今日の雪景色です。


東京ではこのくらいでも大雪なので、今日はお客様のご来店はないと
思いますので少しのんびりムードです。

そういえばですが、先日、母校の北見工業高校から同窓会名簿の
案内が届いていました。


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以前勤務していた、中野のマリコ眼鏡店に届いていたそうで、先輩の
古川さんがわざわざ届けてくださいました。
今年は北見工業高校が創立50周年を迎えるとのことで、その記念
として同窓会名簿を作るのだそうです。

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現在の北見工業高校 (今日の北見より

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雪がないとこんな感じです。

現在は立派な校舎ですが、私が卒業して数年後に現在の新校舎と
なりました。

訓子府から池北線で北見を経由して石北本線で東相ノ内まで
通っていましたが、先週の東京に降った雪の4倍くらい降ると、
汽車も動かなくなるので、ひと冬で2回くらいは臨時休校になる
こともあったと記憶しています。


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2013年12月26日

株式会社 はら時継店

本日、平成25年12月26日付で、当店 opticRAINBOW は
社名を「株式会社 はら時継店(ハラトケイテン)」となりました。

この良き日を迎えられましたのも、多くのかたの支えとご愛顧があったためであり本当に感謝に堪えません。

また、会社設立にあたっては、当店スタッフはじめ多くのかたのサポートとご尽力がありましたことを本当にありがたく思います。

社名を「はら時継店」といたしましたのは、これまで約50年時計店を営んできた父の意志を継ぎたいとの思いからです。

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昭和30年代創業当時の原時計店(北海道・訓子府町)


私は、昭和57年に高校卒業と共に上京し眼鏡専門学校に入学しました。
当初は実家の家業を継ぐためだったのですが、その後の地域経済の変化もあり、東京に留まっていました。

そして結局は、東京杉並区に独立というかたちで眼鏡店を創業しましたが、父も70代後半になり、昨年末に実家の原時計店が閉店することになり、何らかの形で父の意志を残したいとも考えていました。

会社設立にあたって社名は原時計店にしようと考えていました。

当店は時計の取扱いはなく、これからもたぶんないと思いますし、眼鏡一本でやっていこうと考えると、理にかなわないとも思いますが、父に意見を求めたところ、意外にも父は「字画が良くない」と渋っていました。

私は字画のことなど考えたこともなく、父の意見は以外でしたが、それでも原時計店にしようと会社の印鑑を作ったのですが、仕上がった印鑑を押してみたところ、なにか気に入らなく思いました。

機械掘りの印相が無機質に感じたせいなのかもしれませんが、どうせならと手掘りの印鑑を作ることにして、当店スタッフの薦めもあり、その際に字画も診てもらうことにしました。

そして、多くの案の中から「はら時継店」という名前が決まりました。

posted by yasuhiro hara at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 生い立ち

2013年10月26日

北海道 訓子府町へA

私自身の実家への帰省は十数年ぶりなのですが、街並みはそのころよりも変わっていて時代の移り変わりを感じました。


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昨年末に閉店した実家の時計店


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道道50号線を北見側から見る街並み


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50号線と訓子府駅前通りの交差点


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訓子府駅


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駅舎内


初めて中に入りました、私が高校に通学していたころは古い木造の駅で、平成元年にこの駅舎になりました。

国鉄時代は北見と池田町を結ぶ地北線としてなくてはならない路線でしたが、国鉄の分割民営化により
第三セクターの運営する、ふるさと銀河線として平成18年の廃線まで運行しておりました。


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訓子府中央公園


駅前通りに面した実家を通過すると中央公園があります。
私が小学生の時に雑木林のような状態だったのがきれいに造成されライトアップされた噴水が設置されました。
高度経済成長の豊かな時代でした。


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生まれ頃からある二宮金次郎像


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訓子府小学校


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小学校を通過し常呂川に架かる叶橋へ


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メロンをイメージした公衆トイレです。
無駄と言えば無駄かもしれませんが、あると便利です。



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叶橋


この叶橋も私がいたころは、歩道もなく大型トラックに危険を感じながら通っていました。


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希望がもてそうな、願いが叶いそうな銅像です。


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叶橋から見る常呂川


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メロンを模した街灯が和みます。


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常呂川沿の堤防を通って中学校方面へ


夕方、再び父のお見舞いに行き、午後8時の便で帰路につきました。


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北見市の中心商店街


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女満別空港


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台風も遅れていたため、帰りは満席でした。



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2013年10月25日

北海道 訓子府へ帰省

先週末に父が入院したとの連絡を受け、23日水曜日から北海道の実家に帰ってきました。


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今日はエアドゥでのフライトでした。

ANAでチケットを購入したはずが…
共同運航とのことですが、当日は急な機種変更もありちょっと不安でした。

台風接近にともない、機内はガラガラでした。


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しばらくは曇り空で一面の雲でしたが青森上空では晴れて青々と太平洋が見えました。


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エアドゥのマスコットキャラの紙コップ


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釧路港上空、北海道には釧路からはいりました。


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初冠雪の屈斜路湖周辺

屈斜路湖と阿寒湖の間を通り女満別空港に着陸しました。

女満別空港からバスで北見へ行き、母と待ち合わせました。
十数年ぶりの帰省でしたが、新たに高速道路が整備され、以前は1時間弱かかったのが
30分ほどで北見に到着。

その後、父の入院先へ向かいました。


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北見の脳外科病院


父は脳梗塞だったのですが、発見が早かったため、入院4日目にはほとんど後遺症が残らないだろうとの診断で、私が病院に着いた時には、足取りも普通で、右手指先に僅かに痺れが残るくらいでした。
先週金曜日の朝食時に、右半身に痺れがあり本人は週明けにでも病院にいくつもりでいたらしく、母に即され直ぐに脳外科に掛かったことが良かったようです。


先週には、従兄とお互いの親の心配をしていたばかりで、父は70代後半の今まで入院したことがなかったため、いよいよこの時がきたかと覚悟を決めたほどでした。


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午後4時すぎには、実家のある訓子府に向かいました。


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懐かしい矢印標識
吹雪のときは道路の幅が分からなくなるのでこの標識が路肩に沿って続いているのですが
なんていう名称か思い出せないです。


posted by yasuhiro hara at 15:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 生い立ち

2013年09月02日

50年生きて

今日9月2日で50歳になりました。

50年、半世紀も、早いなぁ…ふりかえるとあっという間でした。
ということは、人生の折り返しをとっくに過ぎてしまったことになります。


私は、昭和38年(1963)9月2日に、北海道常呂郡訓子府町に生まれました。
「ところぐんクンネップちょう」と読みます。


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訓子府は、北見市と置戸町に挟まれた、玉ねぎ、ジャガイモ、とうきび(トウモロコシ)などを主に生産する農業と酪農の町です。
現在は訓子府メロンが特産品として知られるようになりました。


私は、そのような訓子府町で時計店を営む両親のもとに長男として生まれました。


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昭和39年 1歳になるころ 仕事場で
将来の運命を暗示するような一枚です…


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昭和40年冬 1歳半

当時犬を飼っていたとの記憶はまったくありませんが、こんな写真もありました。
チビという名前だったそうです。

オシャブリをなかなか卒業できなかったと聞いています。



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昭和40年初夏

当時、日本は高度経済成長の真っただ中で、景気が良かったことが入荷した商品の段ボールが積まれていることでうかがい知れます。


当時は道路がまだ舗装されているところが少なく、店の前は歩道と車道の区別がなく、当時の農作業はまだ馬に頼っていましたのでよく馬を引く光景が見られ、いたるところに馬糞が落ちていた記憶があります。




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2008年03月11日

訓子府から

訓子府のおじさんから開店祝いが届きました。
訓子府と書いて”クンネップ”と読みますが、北海道の北見市の隣町です。

私はその訓子府出身で、今も両親が時計とメガネの兼業店を営んでいます。
さっそくお礼の電話を入れましたら、床屋のおじさんはえらく元気な様子で、私の独立開業を喜んでくださいました。
「いや〜よかったな!頑張ったなぁ〜たいしたもんだっ!」
実は私が10数年前に祖父の葬儀で帰郷したさいに、おじさんといろいろ話した際に
「男だったら独立しろ!職人は人に使われていたらダメさ。」
と言われ、それ以来その言葉は頭の隅にずーとあり
たまにふと思い出しては自分を奮起させていました。
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2008年03月05日

Catch the Rainbow

老舗眼鏡店を退職し独立開業いたしました。
店名にこじつけて、タイトルを”キャッチ・ザ・レインボー”
としましたが、虹をつかむまでにはまだまだ遠い道のりのようです。
強度近視用ウスカル枠、大きいメガネ、丸メガネ、など他店にないフレームを扱っています。
その他に、パソコンメガネ、深視力検査、視覚機能検査などもやる技術系のメガネ屋です。
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